まだ若いけど・・・遺品整理します

12歳の頃から書いてきた日記が、たまりにたまって400冊。処分する前に、かつての熱い想いをブログ上に残しておこうと思いました。

「私の未来予想図」1982.11.6.



11月6日(土)
 最近、未来のことがよく頭に浮かんでくるの。数分後のこと、何年後かの自分の将来、いろいろ。当たるのは、7割くらい。
 私の見た、将来は・・・→
「中3で勉強に苦労する。
 高校時代は苦労も多いが、最終的には幸せをかみしめる。高1で一度告白される。高2で骨折。高2でコンサートに行く。高2の中頃から高3の始めごろ、付き合いそう(性体験ありそう)。
 大学、5月病になりそうだけど、立ち直る。一度、おそわれそう、まわされそう、ピンチ!大学2年の時、真剣なBFができる。でも、つまんないことで別れちゃう。勉強以外でも充分ENJOYしそうな大学生活、無事卒業。
 そして教育実習を経て、中学英語教師へ。1年目から2年目にかけてスランプしそう。その後立ち直り、めざましいひやく。5年目か6年目で、中学時代の片想いの彼、山口修二と久しぶりに会い、話してるうちに親しくなってプロポーズされてしまう。戸惑い、それでもうれしく、涙ながらに教職を離れ、主婦。結婚3年目にして子をさずかり、女、女、女、男。末っ子の男の子は、残念だけど早死にしそう。
 詩・小説・童話・作詞・コラム etc を執筆し、主婦のライターとしてわずかな注目を浴びる。幸せな時、右手がなにかおかしくなりそう。でも、生きぬく。
 死は72歳。修二73歳」


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 中2の時点では、英語の先生になりたかったんです。でも、最終的には書く仕事がしたい、というのは幼い頃から今まで変わっていません。実際、30もの職種を経験しました。その点だけは当たっていましたが、あとはことごとく外れていますね。
 でも、良かったのかも。ずいぶんとつまらない人生を予想していたものです。実際は、とにかく波乱万丈でした。
 今後もまったく予想がつきません。願望は相変わらずありますが。

「話しかけられた!!」1982.10.6.


10月6日(水)
(前略)どうして、そうじなのに修二がそこにいるのかって?なに、さぼるなんていつものことよ。だから、おどろきもしなかった。へ~さぼってるときは大木んとこに来てるのか、そんな感じ。
 それはともかく、音楽室に私は足をふみいれた。修二は窓1,大木は窓2の前にいた。したら次のしゅんかん。。。「なに、高橋、なんでこんなとこ来てんの?」という修二の声。。。♡き、き、きゃあ~~もう、うれしくって、うれしくって!!たぶん7月20日以来だと思う。胸は高鳴り、はじけそう~!なんか、高橋って言われたの初めて?うっうれしい~!!
 私、思うに、あのとき、「なに、修二こそこんなとこでなにしてんのかな~。私はちゃんとそうじしてんのにな~」とか何とか答えればよかったのにさ!!もう今さらしょうがないけど。
 とにかくうれしい。修くんが好きです。好かれるようにがんばります~!



10月7日(木)
(前略)なんか、ケンカなんかして情けないなあ。でも、なぜか好き。。。。ほんと、なぜか好き。修二は、多少幼い部分があって、多少冷たくもあって、多少ひょうきんでもあって、多少クールでもあって。。。千春の情熱家とはホント正反対。どちらかといえば嫌いなタイプのはずなのに、なぜ?まったく分からないな。
 学活中、「あとで雅史にあやまっといて」という修二の声がした。やっぱり優しいのかな。ちょっとうれしかった。


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これから、こういう日記が延々と続きます。できるだけ割愛していきます。

それでも、貯金が増えるのは


 前回の話の続きです。


 貯金は増えていると書きましたが、これは元夫からの仕送りが多いわけでも、私の収入が多いわけでもありません。私たちの支出が少ないからだと断言できます。
 まずコロナ禍でレストランは閉まっており外食できませんし、旅行もほとんどしていません。
 マスクで顔がほとんど隠れるのをいいことに、去年、肌断食なるものを始めました。よって、化粧品が一切いらなくなりました。シャンプー・リンスも使う量を大幅に減らしました(敏感肌になったので、唯一、歯磨き粉だけは高いものを使っていますが)。
 それより何より、うちには車がありません。私はお金のかかる趣味もありません。服、靴、アクセサリー等にまったく興味がなく、買いません(娘は自分のお小遣いで買っています)。元夫が好きだった変なワインやチーズ等を買う必要がなくなりましたし、オーガニックを買うよう言われていた野菜果物も安いものを選べるようになりました。うるさい制約がなくなったおかげで、肉魚は見切り品を買えます。


 とにかく、化粧をしなくてもいいよと言ってくれるパートナーに出会えたのは、大きな幸運でした。
 数年後、生活費が減らされる時に備えて、今はしっかり働いて貯金しておこうと思います。はっきり言って、今のパートナーの月収は私と同じくらい。職種が職種ですし、フルタイムで働いていないので。それに比べて、元夫は3倍以上稼いでいます(就職すれば。現在失業中ですが、お給料の8割にあたる失業保険を受給しています。それでも3倍近くですね)。
 だから再婚しない・・・のではありません。私は相手を選ぶ際、収入はまったく気にしません(現に彼は、私のこういうところが気に入ったらしいです)。


 お互いにバツイチなので、慎重になっているだけです。またお話ししますね。

訂正とお詫び:稼がないといけません

 


   私は思い違いをしておりました。この国でも、離婚後はしっかり働いていかないと食べていけません。


 先日、初めてしっかり合意書を見て、数字を確認しました。月に支払われる額は、別居時よりも格段に低くなっていました。私はそれを知りませんでした。
 昨年6月の離婚当時、目を通して、サインまでしておきながら、別居時より増えたか減ったかということさえ確認していませんでした。ある時、思い立って、月々いくらもらえるのかを手帳に書いておいたのですが、何故か私は別居時の同意書から数字を拾って書き込んでいました。


 先日、税金の申告をする際に初めて振り込みを確認したのです。それも、現在のパートナーに、振り込みの詳細を提出しないといけないと指摘され、しかし元夫に頼んでも時間がないと拒否されたので、自分自身で明細を作ろうと思い、そこで初めて口座を確認したのでした。元夫は振り込む日も金額もバラバラでしたので、よくわからないようにわざとバラバラにしたのかと思ったほどです。が、よく調べているうちに見えてきたことは、去年の4月からずいぶんと金額が減っているということでした。
 始め、私は、もともとケチだった夫だけど、自分の娘の養育費までケチるのかとがっかりしました。でも生活費は足りているどころか貯金は増えている(だから気づかなかったし、確認もしなかった)ので、請求するつもりはありません。ただ、一言くらい言ってやりたいと思い、「決めた金額が払えないのなら弁護士に言って訂正してもらって」とメールに書いたのです。しかし返事がなく、一体どういうつもりだと思っていました。
 その数日後、偶然街で会ったので、その話をしたところ、僕は正しい、合意書をちゃんと読んでみろと言われたのです。私はまるで信じず、その時は口論になって別れました。
 しかしパートナーと一緒に同意書を読み返してみたところ、なんと元夫の言い分は正しかったことが判明。娘の養育費は変わっていませんが、私の生活費は大幅に減らされていました。
 それは私が離婚後に働くという前提で決められた金額です。


 幸いにも、別居後ほどなくして仕事が見つかり、コロナの影響も受けない職種だったため、2年がたった今も順調に働いています。今まで数々の転職をくり返してきたことを考えると、今回は運がよかったです。と同時に、やはり「頑張って働いて、自力で生きていきなさい」と神様が背中を押してくれたのだと思うのです。
 別居を嫌がっていた夫が、自ら離婚を言い出してきたのは、私が早々に新しいパートナーを見つけたからだと思っていました。しかし今となっては、月々の支払い額を減らすためだったような気がしています。


 今回のことで、やっぱり再婚すべきだろうかと悩みました。経済面で、一気に不安になりました。
 が、その時はその時。とりあえずはこのまま働き続け、せっせと貯金して、パートナーとは仲良くしながら、しばらく様子を見ようと思います。


 とにかく、よく調べもしないで書いてしまい、申し訳ございませんでした。
 ただ、こういう呑気で世間知らずな者でも離婚して暮らしていける国、ということだけは事実のようです・・・。どうも失礼しました!

「私はふつうの人とは違う」1982.8.14


8月14日(土)
あのね 私 ずっと前からだけどね
自分は ふつうの人とは ちがうんだ
私には とくべつの なにかがあるんだ
みたいに 信じてる部分があるの
どうしてだろ
冷静に 自分の行動をふりかえってみれば
ただ ただ普通なのに
平凡なのに
まあ、そんなこと わからないけどね


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 へえぇ、そんなこと思っていたんだ、というのが今の私の感想です。
 現実には、日常的に母親にバカ呼ばわりされ(母は私と話す時にそれはもう「バカ」を連発していました。当たり前になっていたので、それを娘に指摘されるまで私自身気づかなかったほどです)。父親は時に私の作文などを認めてくれていましたが、要求が高いことに変わりはなく。学校でも小学生の頃こそ優等生だったものの、中学で教科の差が著しく開き、高校では赤点の常習犯となっていました。
 要するに、特に優れた才能を持っているような兆候も片鱗もなかったわけです。にもかかわらず、こういうことを信じて、かつ書き残していたというのは興味深いです。まあ単なる思い込みなのでしょうが、それが本当に根拠もなく、周囲から特にほめられることもなく育ってきたので。例外的に、書いたものをほめられたことはありましたが、まあそう頻繁にあったわけではありません。
 ただ、「平凡」というのは正しくないです。成人してから実にさまざまな体験をしてきた私ですが、育った家庭環境もまた複雑で、決して平凡ではありませんでした(それに気づいたのも大人になってからです)。 
 そして「普通」でもなかったと思います。子どもの頃は常に、「ようちゃんって変わってるね」「変な子だね」と言われ続けてきたからです。考えてみれば、この思い込みは、もともとこのあたりから来ているのでしょうね。ただの「変わった子」という評価を、少し自分の都合のいいように、少しドラマチックに劇化していたにすぎないのではないでしょうか。


「とくべつのなにか」というのは、一体どんな特別なものだと思っていたのだろうか。もう少し詳しく書いておいてほしかったと、今の私は思います。